石を投げるなら乗り込んで大気圏まで突っ切ってみようか。

石を投げるなら乗り込んで大気圏まで突っ切ってみようか。

あなたたちの中で罪を犯したことのない者がまず石を投げなさいと、出来た人間でもない私は言うことができない。

公園で天高く投げた石が、一緒に遊んでいた子の顔に真っすぐ落ちてしまったことがある。
出来る限り高く飛ばすために選んだ子供のこぶしほどの大きな石だ。
どれだけ遠くに投げられるか遊んでいたのだから、太陽に届くのかというくらいに空を切る石を、その場にいる誰もが見つめていたのは特におかしなことではなかった。
額から流れている赤い血と、今まで顔も知らなかったその子の母親が鬼の形相で彼の肩を抱いている光景が焼き付いて離れなかったのを覚えている。

彼も私も、同じ学校ではなくて公園で出会うふとした瞬間を共有できる奇妙な友情で繋がれていたものが、一瞬で額を割った。
もう一度出会うことは二度となかったし、仮に出会っていたとしても、お互いの年齢や名前もしっかりと知らない状態だったので、絶対に認識できないだろう。
もしかしたらどこかで出会っているのかもしれない。
それほどに世界は狭い。
それでもすぐに世界は分かたれて、当たり前のように時間が進む。
一言で良いから、謝りたかった。
彼の母親がすぐに病院に連れて行ったのだろうか。
真っ白な太陽に焼けてしまった視界に映る血液はあまりにも鮮明で、その時から自分の行動がいつでも誰かを被害者にしてしまうことがあると、心の奥底に重たい何かを落としていた。

扨て、この世で罪のない人に石を投げるのはあまりにも容易だ。
私の石は空気を切る度にナイフのようにすぐに風の抵抗で研ぎ澄まされ、誰かの心臓を貫く。
部活の余興でチームメンバーと出し物をするとなった時に、私がメンバーのよくないところをひたすら指摘する、と言った半ば他チームへのドッキリのような企画をしたことがある。
誰かのアイデアで、皆が了承してスタートしたものであったが、蓋を開けてみれば「そこまでは言われたくなかった」と本気で傷つく顔をする人々が居た。
"ノリ"というものを最大限活かして、私は道場の真ん中で土下座をしたような記憶がある。

誰かを傷つけるお笑いなんて、この世に必要ないのかもしれない。
もしくは、傷つけるか否かのギリギリを丁寧にリスペクトの気持ちをもって攻められるのがプロフェッショナルで、テレビで見聞きし齧った程度の素人にはできない芸当なのだ。
特にお笑いがやりたいとか、芸能関係の職業に就きたいと思っていたわけではなかったものの、とあるきっかけで私はラジオパーソナリティの世界に身を置いた。
当時30以上年の離れたラジオ局の先輩は、わざとらしく感想を述べるテレビの食レポバラエティーに嫌気が差して、一瞬もカメラ目線にせず、一言も面白いことは言わず、淡々と味や使われている食材、そしてその現地の食文化について補足をしていくというコアなレギュラー番組を持っていた。
それが海外の人にはかなり好評だったようで、日本人でありながら海外では知らない人はいないというのを後々知った。

私は、学生たちの夢を応援する番組の司会進行、番組構成と、台本作成を行っていた。
若者たちが限られた時間の中で夢について語るのは、満ち満ちた時間であった。
先輩からは、「常に3〜4個の質問を想定しながら話を聞き、最適な流れを生み出すように組み替えていく」ということを教えてもらっていて、誰かの話を聞きながら話を広げられるように回していく能力を得たように思う。
それからというもの、自主製作映画を作ったり、ポッドキャストで先輩と配信をしたり、インタビュー動画を撮ったりと、自分の中で「真面目なこともエンターテインメントになる」と実感を得ていくことができた。

それでも、自分の経験を活かして何か専門職に就くという考えがどうしても持てなかったのは、自分が勉学が不得手で、競争社会であるクリエイター職で適応できる気が少しもしなかったからだ。
ラジオをやってみて、エンジニアも、イラストレーターも、タレントも、何もかも仕事をするということは、作る前にまず学ぶことが不可欠だと、身を以て知ったとも言える。
所詮下手の横好きで続けてきたことで、金銭が発生したことはよほどWebメディアに話を付けて採用してもらった映画レビューや、イベントで有名人のインタビューの動画を撮影できたときだけだった。

私は友達や大学の就職課の担当者さんに、言われるがままにMRのインターシップに参加することになる。
人生を変えた出来事だった。
人と切磋琢磨することにやりがいを感じたのは、あれが初めてだった。
無料で参加することができたインターシップは、外資系で現在もコロナワクチンなどを開発する超大手の薬品会社だ。
MRのインターンシップということもあり、そこから才能を見染められて直接採用されることもあるという。
会場に来てみればあまりにも場違いである気がしていたが、講師が来る前のまだ何も始まっていない待機時間、九州でトップクラスの大学に通っていた薬学部の男性から、「何故ここまで来て熱意のないふりをしているのか?」と問われたことがある。
私は私立大学出身で、同期には、なんとなくで現在の志望校を選んでいたり、滑り止めで在学することになった人も多かった。
「ここには薬学部で6年間勉強している人もいる。浪人してそれを選んだ人もいる。何も分からないと言って曖昧な気持ちで参加するのは簡単だ。でも、ここに選ばれている以上、4年制大学に通っている自分がどういう風に参加するか、姿勢一つで変わるよ」と、全て心を見透かされたことを言われて、私はドキッとした。
私が所属していた心理学科は当時の我々が1期生で、何かにつけて学科で行う決定が上手くいくかどうかのモルモットのような扱いを受けることも多々あった。
MRのインターシップ以外はパチンコの契約社員の採用にしか応募していなかったくらい、自分が仕事ができるかどうか、学び続けられるかどうか、全く自信がなかったのだ。
売り言葉に対して乗っかっているような気がしていたが、私は4日間の、しかも無料で参加しているインターンシップくらい、全力で向き合ってみてもいいかもしれないと思った。

チームごとに戦略を立てて効率的に病院さんを回っていく。
何も分からないままひたすらへりくだり続けて忙しいお医者様に邪見に扱われてしまう人や、知識を曖昧にしかつけないまま突撃して返り討ちにされている営業マンたちを見て、これは作戦が必要だと思った。
私のチームには幸い、まずはファーストペンギンになりたいと言ってくれる、やる気のある人がいた。
また、女性で薬学部6年生のお姉さんがいて、資料や知識のわからないところは全て教えてくれた。
私はお医者様とはまず薬の売り込みをするのではなく、困っていることをヒアリングすることから始めた。
よくよくこのインターンシップを経験して営業職を目指すことになったのだが、営業関連のバイブルと言われるような本に書かれていることは全て同じで、「営業は、営業をしたら負け」というものだった。
感覚的に「これがおすすめですよ!」と押し売りするだけでは響かないのは何を販売する時もそうでまずは困りごとを聞いてそれを解決するのが重要であるのだと感覚的に気が付いていった。
それを繰り返していると、知識や経験がある先輩方に、「あの病院さん手ごわかったけどどう発注したの!?」と問われることが増え、自分は薬学部の生徒には知識ではかなわないけど、知識をたくさん持っている人に何か与えられるのだと気が付いた。

私のことを見透かしたように初対面で話していた彼からは、「やっぱり理解していたんだね。いい好敵手で嬉しい」と言葉をもらい、大変うれしく思った記憶がある。
個人として、惜しくも最終的な売り上げランキングの50人中10人の中にしか入ることができなかったが、チームとしては最優秀のチームワークのMVPをもらい、それが心強かった。

打ち上げが終わってオールでカラオケで笑い合った日の朝、大阪や東京から遥々インターンシップを受けるために福岡に来ていたメンバーと、別れの挨拶をする。
おや、彼もずいぶんと寂しそうな顔をするものだ、と思った。
4日間の苦しくも淡い記憶だ。
また会いたいと思っている人が世界のそこかしこにいる。
私はまた輝いて、いつか彼らに届くだろうか。

ありがとう。
誰かも知らない、顔も分からないような人たちから、表面上でしか判断できていない虎の威を借りまくる狐たちの言葉は、あまりにも滑稽である。
一生そのままでいてほしい。
私は恵まれているのを心の底から自覚している。

有象無象の言葉ではブレない。
心を丁寧に磨いていこう。
誰かにとって邪悪でも、私は誰かに影響を与えて、そして誰かの影響を与えられ続けている。
どうでもいい荷物は全て燃やしていこう。
燃やそうとしてマッチの火しかつかなかった連中に、あたたかなカイロを匿名で。
歌をうたうこと、かき鳴らすこと、手を叩くこと。

歌をうたうこと、かき鳴らすこと、手を叩くこと。

きっともう声を出すことは許されない。

それでも、自分が我慢することで成り立つことがあまりにも多く、それ故に上手く回っていく世の中であることを、そろそろ受け入れなくてはならない。

それはこの世に生を受けたことを喜ぶのであれば尚更だ。

先人たちが今まで積み上げてきたものがある。
逆に先人たちの言うことだけ聞いておけば大丈夫だと感じる。

今生きている人たちは全然先人じゃないので、間違ったことを言うこともある。
そもそも、あんなにすごい先人たちの知恵ですら間違っていることもある。

なんだか、そんなに信じなくていいよね。
全然信じてないです。
私の声はきっと、もう何かを訴えるためには使うべきじゃないし、ずっと前からそうだったのだろう。

私は歌うだろう。
楽し気に歌う。
破壊衝動を乗せて。
私はかき鳴らす。
音を出してみる。
踊り狂う。
私は手を叩く。
誰の事も傷つけないように。

愛した世界がある。
それは、誰かを愛さなくてはままならない。
きっと、愛情が無い人は、私が世界を愛しているだけだと、お腹が空いただの喉が渇いただのとぼやき続けるだけだろう。
仕方のないことだ。
実は愛情は、愛情ある人にしか見えないものだ。
クッキーは、分け与えて初めて美味しく思える。
箱のチョコチップクッキーを全て食べてしまうことの罪悪感は、肥えるからだけじゃないと思う。

ご飯を食べて美味しいと笑い合える人や、好きな音楽を聴いて泣ける人。
何かを消費し続けるのではなく、考えあぐねて苦しみながらも、生み出し続ける人。
おかしいと思ったことに対しては、傍観しているだけではなく動き出せる人。
そればかりを愛している。
それでも良いのだと知った。

倒れている人にすぐに手を差し伸べることができる友人と、今日もちょっと危険な冒険譚を描こう。
同じ言語で話しているというだけでは、何ひとつ語れない。

同じ言語で話しているというだけでは、何ひとつ語れない。

「どうしてそんなことを言うの!?」と叫ばれる。
そもそも、どうして暴力を振るうのか。
どうして無理矢理に行動を強いるのか。
どうして借りたお金を返さない。
分からないから問うのに、理解できないのか、理解したくないのか、彼奴等は強烈な超音波で私を吹き飛ばす。

長い時間をかけて無気力を学習していく。
何もしたくない。
何も言いたくなくなる。
実験動物は死んでしまえるけど、私たちは壮大な地球の実験に巻き込まれて死んでいくなめくじだ。
最後は骨まで塩みたいに粉々になるのだ。
伯方の塩って、博多っ子からすると少しこちら側のやつじゃないんだと残念に思う。
エレクトリカルパレードが流れ出す。
どうでもいいことを目前にしている時のBGMだ。
大体は説教を受けている時に流れ出すのだが、顔を真っ赤にして、こめかみに青筋を浮かべながら、唾をまき散らしているのを見て、「こいつはエレクトリカルパレードやってんのに何いってるんだろう」という気持ちになる。

そうして臭いものとさよならして生きてきて、上手くいかないよと言われ続けたが、なんだかんだ今が一番苦しくない。
どんどん捨てて、どんどん取り払って、時にはなぎ倒して、跳ね返った石や土が飛んできて怪我をしても、息をできる方が良いのだ。
どちらにせよ、苦しむことは分かり切っている。
諦めても、頑張っても、結末は一緒だ。
それはとても恐ろしいことだと思う。
"普通"は、頑張ればある程度は結果が出るのではなかったか。

そこまで思考して、改めて気が付く。
私は普通ではない。
幾度となく言われてきたことだ。
普通じゃないからやめろ、普通はこうなんだ、普通の人はこう考える、普通にしていてくれ。
普通、という普遍的な言葉で、人によって全く解釈が異なる何かを指し示す。
誰かの普通なんて最早知りたくないな。
何故なら普通をインストールすればするほど、誰かの普通は誰かにとってあまりにも普通ではないと理解させられるからだ。
絶望の先には、何もない。
一度超えてしまうと、味の向こう側には何もないのだ。

そうか、こんなに何一つないことがあるのか、と真っ白な部屋を眺めてみる。
部屋は白くても、どうしても物であふれかえっていく。
何もかもを捨てるなんて生きている限りは無理なんだと、また頭が真っ白に途切れる。
それでも生き続けていく。
ゲームは間違えば一度終わるけど、人生はゲームオーバーにならない。
永遠にコンティニューさせられるなんてクソゲーだ。
リロードはできなくてもいいから、一旦終了させてほしい。
セーブくらいは、いいだろうか。
ずっと無理バイしていることに、ようやく気が付いた。
弱い武器で戦い続けて、アビリティの使いどころも知らない人が、低ランク帯から抜け出せるはずがない。

じゃあどうするのか。
何度も何度も死んで、何度も戦うしかないのだ。
闘うしかない。
何と戦っているのかと言えば、結局自分自身だ。
諦めても仕方ないと理解している頭が、体をどうにか鞭打っていく。
幸い、毎日は彩り豊かだ。
ご飯もおいしい。
生きるって単純だ。

さあ、早くさよならまでの準備をしよう。
偶然の必然に出会って初めて、世の中が動き始めた。

偶然の必然に出会って初めて、世の中が動き始めた。

緑と白が、キーカラーだと教えられた。

どうすればいいんですか?と問えば、身に着けてみたり、ふと目に入った時に気にして見たりするとよい、とのことだった。
白はとても好きな色だが、緑は気に留めたことがあまりなかった。
むしろ、そこまで好きじゃないかもしれない。
緑袴は部活動のメンバーにダサいと嫌われていたし、ピーマンとゴーヤがこの世で一番憎たらしい味をしているし、父親に連れていかれた登山で遭難してしまった時の歩いても歩いても木しか見えない景色を思い出す。
しかも信号は明らかに緑なのに青と呼ばれている。
あの子は緑か?青か?それとも"進めの色"だろうか。

どうしようもなく宜しくない思い出ばかりを抱えて、白いTシャツを着て街を歩いていた。
新天地では、部屋の隣に大きな公園があった。
久しぶりに芝生の緑を目にして、昔住んでいた田舎は遊びに行くところがあまりにも少なく、地域のプールやパターゴルフが集まる施設に行けば、誰が、いつ、だれと、何をして遊んでいたか、全てが筒抜けであったことを思い出す。
私が親友だと思っていた子は私のことを心から恨んで「苦しんで死んでほしい」と友人へ漏らしていたし、私が恋人だと思っていた人は私に「僕らは本当に恋人なんだろうか。恋人みたいに過ごしたい」と言われていた。
普通のことは分からないし、誰かの気持ちも分からない。
だが、妙な好意や、心から嫌いだという感情は、ありありと見えるようになって行った。
知りたくないことばかり脳みその中に蔓延していって、夢を見る前は必ず布団圧縮機に詰め込まれているように血流が逆行していく。
レコーダーのデジタル時計は、すぐに3時と4時と写し出す。
眠らないの?と聞かれても、お布団で目が覚めたままだと汗をかくだけで気持ちが悪いのだ。

朝までの時間、「三日に一回しか眠れないんだ」と言っていたアニメの主人公に思いを馳せる。
夜空を眺めながら、仲間が話を聞いてくれる。
私にも夜空ならある。
ふと外へ出て、歩いてみる。
誰もいなくて、やることもないから、お気に入りの野菜ジュースを、なけなしの100円で買ってただ歩いていた。

そんな、一人の時間が好きだった。
ずっと忘れていたようだった。
この世界で、本当に孤独なのは、誰にも会わないことじゃなくて、誰にも会えないことだったんだ。
私は、その孤独をひたすら感じていた。
まだ海外に行くのがパスポートを取るだけでできた頃。
飛行機から降りて、空港を出て、最寄りの駅の地下街に降りた頃。
私は、家に誰もいないことを知った。

広い部屋で、私は気を失っていた。
泣き崩れたのか、どこかにぶつけたのか、あまり覚えていない。
夜には、友人に話しをしていた。
自分が今後どうしたいか、問われて、心はぶれないが、感情は何かにかき回されて乱されていた。
1年目、整理が付かないまま働きづめて、涙が止まらなくなり、周りに多大なる迷惑をおかけしました。
2年目、全く動けないことが多く、どこかに行くこともままならず、どうにか自分の世界を作りましたが、いろんな人に怖がられたり、怒られたりして、多大なる迷惑をおかけしました。
3年目、仕事にも復帰して少し良くなってきたと思ったのですが、誰かの正義であるのなら自分を貫くことはできず、多大なる迷惑をおかけしました。
少々、疲れてしまいました。
いつでも人が加害者になると知っていて、つまり被害者がいます。
私が加害者であるのならば、特にこの世界にいる意味はないと感じます。

だから、いろんな人に相談してみたのですが、感情論だと言われたり、社会不適合者だと言われたり、ヒトラーのような独裁者になりかねないと言われたり、どう考えてもオマエが悪いと言われたり、やっぱり友達ではいられないと言われたり、何がしたいか分からないと言われたり、ああ、どうしようもなくこの世界で本当にエキセントリックなのだと実感するだけでした。
仕方ない。
はじめから誰かが言っている何かを、何となくでしか聞き取ることができなかったような気がする。
頭がいいとか、感性が豊かだとか、何かいいことがあるかと言うと特になかっただろう。

さて、私はもう自分がおかしいことを認めなくてはならないし、認めた瞬間に聞こえ始めたものに、助けられつつある。
それは離婚届を出すときに出会った、ホームレスのおじさんから始まった。
書類に不備があって出直さなければならず外に出ると、雨が降っていて、市役所の近くの公園には、いつもよりも人がいなかった。
高架下で項垂れて座る男性の前の、道の上に置いたグリーンのキャップが目に入る。
「これ、お金入れてもいいですか」と問うと、ゆっくり目を開けて、静かに頷く。
「いくらがいいですか」と問うと、「千円」と言うので、「千円出すので、私の話を聞いてくれますか」と伝えた。
少し驚いた顔をして、掠れた声で「何だい」と言うおじさんに、「私、今日離婚しにきたんです」と伝えると、「え?」ともう一段驚いて、「どうして?」と私の顔をまじまじと見つめる。
事情を伝えると、「そうか。でも、書類を取りに行くならまだ閉庁まで時間がある。付いてきてほしい」と言われ、私は浅草の街へ飛び出した。

浅草は仲見世通りと雷門しか見たことがない。
でも、ソラマチで大好きな作品のコンセプトショップがあるので、片手で数えられるほどは訪れている。
日本史を専攻していて、浅草十二階や花やしきなどを知っており、映画やお笑い、舞台が好きな私は歩くだけでワクワクするのだ。
おじさんは、スカイツリーの前まで歩いて驚くことを言い始めた。
「このスカイツリーの根っこの部分、俺が作ったんだよ」
どういうことかと目を瞬かせていると、浅草のほとんどの建物の設計に関わっているらしい。
あまり口では言えないような、所謂任侠の世界もたくさん経験したようだ。
人力車のお兄さんが、商店街で犬を歩かせるおば様が、振り返っておじさんに挨拶をする。
不思議な気持ちだった。

おじさんは、浅草に咲いているほぼ全ての花を見せてくれて、川で保護されている稚魚やサワガニの居場所を教えてくれて、ドン・キホーテの水槽の前の魚が沖縄から来たことを教えてくれた。
「あんな綺麗な海からここまで来たんですね」と、小さな頃に見たピクサーのファインディング・ニモを思い出していると、同じく水槽を見ていたお母様が、「こんなところに閉じ込められて、もう二度とあの広い海には戻れないのよ」と話す。
同じ気持ちになっていた自分は居た堪れなくなって、「大切に、されているといいのですが」と零す。
「良い環境ではあるのよ。水も綺麗に保たれているし」とお母様が、こちらに見向きもせずに呟いた。
私は、また雨が降りそうな空の下で、幸せだろうかと珍しい海の生き物たちを見つめる。
地球上のどこへでも行こうと思えば行ける自分は幸せなのだろうか、それともそれは錯覚なのだろうか。
知らない方がいい、知らないことが一番幸せであると、誰もが言うような呪いの言葉が脳をよぎる。
世界を見た後に誰もいない家に一人であった自分は、もう一度自分から世界を見にいくべきなのかもしれないと曖昧に考えた。

「ゴーヤチャンプルーって美味しいんですね」と料理をつつく友人に伝える。
苦手だったものもいつの間にか食べれられるようになっていた。
「苦手なの?」と言われたので、「うん。でもこれは美味しい」と頬張ってみる。
昔はどうしてもダメで、沖縄で食べたゴーヤも少しも食べられなかったのに、あの時の私の味覚から変わったのか、そのゴーヤが特別美味しかったのかはわからない。

でも、生きているのならば、少しでも多く何かを味わいたいと思った。